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英語と現代文教えるから、日本史教えてくれよ。

1 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:22:39 ID:SFvlCPA20
暗記が良く分からないんだよ。

2 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:24:19 ID:jdLkNTkFO
なかよしイケメンって毎日言うといいらしい

3 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:26:43 ID:CGeEdgi40
なかよしゴリメン

4 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:27:47 ID:SFvlCPA20
サブ教科かとおもったら一番点数取りにくい。
なんかおかしい。

5 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:28:54 ID:uLJbrEQmO
さあ地理及び政経をはじめるんだ

6 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:30:49 ID:SFvlCPA20
>>5
政経は点取れるからどうでもいいわ。

7 :大学への名無しさん:2007/11/28(水) 15:45:38 ID:rN03CV18O
日本史は時間もかかるし、暗記得意じゃないと高得点はきつい。
よって変更をオススメする

8 :大学への名無しさん:2007/12/01(土) 23:21:45 ID:5AFZTE//O
>>1
日本史みっちり教えますんで
頼みますから現代文と古文を^^

9 :大学への名無しさん:2007/12/01(土) 23:24:31 ID:q789csesO
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これを見た人は確実に【不合格】になります。どこかに3回コピペすれば回避できます。
これは本当です。やらないと一年無駄になります.



10 :大学への名無しさん:2007/12/01(土) 23:54:31 ID:RsNNCLTV0
いまから政経間に合う?

11 :大学への名無しさん:2007/12/01(土) 23:55:16 ID:RsNNCLTV0
いまから政経間に合う?

12 :大学への名無しさん:2007/12/01(土) 23:56:03 ID:3VFOCDJ6O
今から倫理間に合うかな

13 :大学への名無しさん:2007/12/01(土) 23:58:55 ID:NEiZ7y+DO
スレタイの日本史が日本語に見えたww

14 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 00:15:31 ID:XvUYfj4a0
1日1000問解き続ければ嫌でも解ける様に成る、
要は数と継続に耐えうる忍耐。

15 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:39:02 ID:EFnDG/xd0
日本、清國、韓国

19世紀半ばの東アジアには、日本以外に清國、韓国とがあった。
いずれも鎖国を続けて、欧州列強とロシア、アメリカとによって開国を迫られていた。
中でも、清國はアヘンを密輸していたイギリス商人を摘発したことがきっかけとなり、
1840年イギリス軍に侵略され、旧式の清國軍は大敗し、半植民地化されそうであるという情報は、日本の幕藩体制に対する一大警鐘となった。

16 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:39:49 ID:EFnDG/xd0
日本、清國、韓国

1853年七月ペリー提督率いる四隻の米軍艦が来航し、攘夷か開国かをめぐり大道乱が起こった。
しかし1868年には明治新政府が樹立される。
1871年の廃藩置県は、日本近代化の第一歩であった。
それから僅か二十年間で日本は東アジアの強国になっている。
日本は自力での近代化に成功した。

清國、韓国は自力での近代化に失敗した。

17 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:40:53 ID:EFnDG/xd0
日本、清國、韓国の比較

なぜ、日本だけ自力での近代化に成功したのだろうか?
中世以来の日本に、西ヨーロッパの封地封建制に近い封建制が発達していて、潜在的に近代化を進めていたという事情も考慮されなければならない。
幕末の識字率が世界最高水準であった。
1868年
明治天皇が神々に誓う形で発表された新政権の基本方針
『五箇条の御誓文』の存在。
1、広く会議を興し万機公論に決すべし。
2、上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
3 、官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
4 旧来の因習を破り、天地の公道に基ずくべし。
5 知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

明治天皇を始め新政府の指導者が優れていた事が上げられます。
清國や韓国は、指導者が伝統と因習にとらわれ遅れをとったのです。

18 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:41:41 ID:EFnDG/xd0
帝国主義の時代

19世紀の後半から第一次大戦までの時代は、帝国主義の時代と呼ばれる。
英国、仏国、独国、等の欧州列強はアフリカの分割を競い、アジアでも植民地の拡大に乗り出した。
日本にとって脅威だったのはロシアの膨張政策であった。
小さなモスクワ公国から出発して、ロシアは大変なスピードで国土を拡張し、1613年にロマノフ王朝が発足してから、1913年に至る300年間に、1日平均60平方マイルの割合で領土を拡大した。
一時は北アフリカ大陸の西岸まで達したというのだから、ロシアの膨張力は凄まじい。
しかし、1867年にアラスカをアメリカ合衆国に売却することにより、ロシアは北アメリカ大陸の制服を断念した。
そのかわりに、1891年にシベリア鉄道の建設に着手し、東アジアへの進出に乗り出した。
米国と中国とインドを合わせた面積に匹敵するロシア帝国は、シベリア鉄道の開通により日本の脅威となり、明治維新の指導者たちにとってロシアの当方進出は頭痛の種であっのです。

19 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:42:43 ID:EFnDG/xd0
ロシアは極東政策の拠点であるウラジオストクをシベリア鉄道でロシア中枢部と結び付け、東方進出に拍車をかけ、さらにウラジオストクを守るため、朝鮮半島を制圧しようと虎視眈々と狙っていたのです。
他方、英国はインドを保持せんがため、ロシアが中国に進出することを警戒した。
19世紀の二大帝国主義国が朝鮮半島と満州に関心を持った事は興味深い。
当時の日本は東洋の小国でしかなかったが、1876年二月、日韓修好条約を結び治外法権を獲得。
朝鮮半島では、清國が宗主国として優位を保っていたが、日本は陸海軍の整備に努め、韓国から清國の勢力の排除に努めた。
帝国主義時代を今日の価値基準によって断罪することは公正とは言えない。
清國が韓国に宗主権を主張したのも歴史的にうなずかれるし、日本が軍事力によって韓国から清國を追い出そうとかんがえたのも、当時の国際権力政治の規範では論理的な事である。

20 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:43:52 ID:EFnDG/xd0
実は、中国や朝鮮半島の人々が日本の軍国主義を非難しているのはお門違いであることがこの時代を勉強すると良く理解できます。
自力で近代化できなかった韓国や清國。
自らの國の指導者が無能であった事から目をそらせるために、日本を糾弾しているのです。
我が国は明治維新を再評価するべきなのです。
明治大帝は外国でも高く評価され、ロシアのピョートル大帝、プロイセンのフリードリッヒ大王、英国のビクトリア女王などと比較された。
明治大帝の崩御を伝えたロンドン『タイムズ』紙が『明治時代は封建の世に遠くなく、その美点が近代制度と適度にかみ合った結果、あの勤勉と繁栄、礼節と戦勝があった。今後は日本も下り坂に向かうであろう』と評価した。
韓国や中国には明治大帝に匹敵する指導者に恵まれなかった事が最大の不幸だったのです。

21 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:44:46 ID:EFnDG/xd0
アジア主義の幻想

日清戦争後の下関談判で李鴻章は『西力東漸の今日こそ、黄色人種が相結合して白色人種に対抗する準備を行うべき秋である。ここで、雨降って地固まるといかなければならない』と言って、少しでも良い講和条件を取ろうとします。
また、森有礼が北京に行ったときに李鴻章は『清國、日本、その他の小国も心を合わせて局面を挽回すれば欧州と対抗できる』と説きますが、
その話し合い後に、李鴻章が朝鮮に送った密書では、『日本人の性情は凶悪不屈、貪欲で狡猾、一歩を得ると一歩を進めてくるから是を扱うのは容易なことではない』と言った上で、日本だけでなく英、独、仏、米とも国交を開いて、日本とロシアを牽制するのが得策だと勧告しています。
また、李鴻章は上奏文で『日本に譲歩しても日本は清國を援けてロシアの侵入を防げないのだから、むしろロシアに日本を抑えさせた方が得策である。それ、日本の強弱は相隔たること百倍』と論じています。
即ち、李鴻章は建て前で日本へ同盟を持ちかけて、本音では日本、清國、韓国、で同盟する気持ちなどさらさらなく、むしろ日本を牽制する事に熱心であったわけです。

現代でも中国や韓国の日本人に対する憎悪や不信感は根強く、仲良くする事など社交辞令以外に口にしてはいけないのです。

22 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:46:18 ID:EFnDG/xd0
日清戦争の発端

韓国が自力による近代化に失敗した結果、清國は1882年漢城に(ソウル)にで起こった軍事暴動事件をきっかけに軍隊を駐留させた。
日本も韓国と済物浦条約を結んで駐兵権をえた。
日清両國は1885年に天津条約に調印して、韓国からの撤退と今後の出兵に際しては相互に通告しあう事を約束した。
実質的には優先権をみとめながらも、伊藤博文全権は日本の地位を清國と平等にまで高めたのである。
折から清國軍は北ベトナムで仏軍と衝突し、清仏戦争によりインドシナを失うという窮境にあったことが伊藤博文を助けた。

23 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:47:17 ID:EFnDG/xd0
日清戦争の発端2

それから九年後、韓国では東学党と称する農民の暴動が勃発し、たちまち全羅道一帯を制した。
韓国王高宗は、自力で平定できずに清國、日本に救いを求めた。(甲午農民戦争)
東学党の背景には清國の実力者袁世凱の手が動いており、この暴動を好機として大軍を送り、韓国わ一挙に清國の支配下に置く事を企図していたといわれる。
清國の策謀だった。
当時、日本の政府が帝国議会では優勢な野党によって困惑させられていたことを、袁世凱は日本の無力化と誤った判断をしたらしい。

最近の民主党優勢を見越して尖閣諸島に船を差し向けた中国の動きにソックリです。
中国人は隙あらば策謀を巡らし攻め込んでくるんです。

24 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:48:42 ID:EFnDG/xd0
朝鮮独立に尽力した福沢諭吉先生@

脱亜論で知られる福沢諭吉ですが、当初、朝鮮を真面目に近代化し独立させようとしていたのです。
政治家や財界人の中にも福沢諭吉と同じような考えを持つ人が沢山いました。
実際、福沢諭吉は1881年に『アジア改造論』を発表
@欧米列強の東アジア進出に対抗するには日本、清国、朝鮮の提携が必要である。
Aそのためには、日本がアジアの先頭に立って清国、朝鮮の近代化を図る必要がある。という内容で、アジア全体の近代化という理想的な構想を持っていたのです。
福沢諭吉は、朝鮮独立運動の志士、金玉均へ援助にも尽力します。
金玉均は、福沢から直接的な影響を受けて感化され、多くの留学生を慶応義塾へ送り込みます。
福沢は、中国の儒教的封建主義の影響から朝鮮を切り離して近代化に成功した日本の支援の下に、
完全な独立国として西欧列強の侵略の脅威から免れさせることが、ひいては日本の安全にも役立つと確信し、積極的に朝鮮独立の為に尽力したのでした。
そのため、朝鮮の留学生を迎え入れ教育をして送り返す事を考えていました。
朝鮮政府が江華島条約後二回に渡り総勢62名の視察団を派遣、福沢邸を訪ねて教えを受ける。
1882年壬午事変後の謝罪のため、朝鮮修信使として朴永孝と金玉均が派遣され丁重に迎えられた。
金玉均『時に日本政府、まさに朝鮮に注目し、見て独立国となし、公使を待つことすこぶる慇懃なり、予その実心実事を察し、よって朴君と議し、つひに意を傾けて日本に依頼す』と甲申日記に書いています。

25 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:49:48 ID:EFnDG/xd0
朝鮮独立に尽力した福沢諭吉先生A

金が無かった朝鮮修信使に対して、井上馨外務卿は横浜正金銀行から当時としては大金である17万円を貸与させ、日本へ支払う賠償金の一部にあてるように勧めるとともに、修信使一行の帰国の費用と朝鮮教育事業にあてるよう諭した。
その金をどのように教育事業に役立ててよいかわからなかった朝鮮修信使一行は、福沢にアドバイスを求めた。
福沢は@青年を日本へ留学させること
A京城(ソウル)で新聞を発行するように勧めた
その後、留学生は慶応義塾と陸軍士官学校へ入学した。
新聞については、印刷機や漢字活字なども準備してやり職工監督なども雇い入れてやった。
福沢の門下生、井上角五郎によって1883年、朝鮮初の新聞『漢城旬報』が創刊された。
井上角五郎は、甲申事変の福沢の関与について『金、朴、の一挙に就いては、先生は、ただ、に其筋書きの作者に止まらず、自ら進んで役者を教え、又、道具だてその他の万端をさしずせられた事実がある』『福沢諭吉伝』
福沢は甲申事変(朝鮮近代化を目指すクーデター)を起こし、清帝国の袁世凱の介入で失敗した朴や金を数週間福沢邸にかくまっている。
こうした日清間の緊張が高まった1885年3月16日に脱亜論が発表されたのです。
脱亜論とは、朝鮮近代化に期待して尽力した福沢が、自ら近代化を拒む朝鮮人や清国人に対する深い失望感から生まれたのでした。
まさに、朝鮮人や清国人に愛想が尽きて三行半を突きつけたのが脱亜論だったのです。

26 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:51:21 ID:EFnDG/xd0
壬午事件の勃発

1882年
朝鮮にも日本の明治維新のありかたを参考にして西欧的な近代化を急ぐべしという開明派(日本派の明成皇后ビンヒ一族)と、清帝国の冊封体制を守ろうとする守旧派(大院君、国王の親)が激しく権力争いをしていた。 実権は王妃の日本派にあった。
改革派は、日本から軍事顧問を招き新しい軍隊を創設し新しい軍隊を優遇していました。
それを妬んだ従来からある旧軍が暴動を起こしたのを発端として、伝統的な中華秩序を守り、封建的な文化や伝統を死守しようとする国王の父、大院君がクーデターを起こした。
多くの日本人が殺害され、一旦は守旧派が改革派を追い出しました。
しかし、逃げ延びた王妃が清帝国へ密使を送り助けを求めた為、清帝国の袁世凱が介入し、国王の父、大院君は拉致され、天津に幽閉され、再び実権が王妃に戻されたのでした。
王妃は、近代化の親日政策を破棄し、旧来の親清政策へと大きく転換するのでした。

27 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:52:18 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発@

1884年
守旧派(親清派)が改革派(親日派)から権力を奪うのに失敗した壬午事件から二年後、
今度は、愛国心に燃えた日本留学組や福沢諭吉の息のかかった改革派(日本派)が守旧派(親清派)から権力を奪うために起こしたのが甲申事件です。

28 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:53:01 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発A

金玉均や朴永孝らの改革派はソウル郵便局の落成式を狙って騒動を起こした。
国王高宗から命を受ける形をとり、日本公使と日本軍に護衛を依頼させました。
守旧派(親清派)の王妃一族の重臣を殺害し、王妃一族を一掃しクーデターは成功した。

国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を宣言した。
新内閣は国王の稟議を経て。
@国王は今後、殿下ではなく皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事
A清帝国に対して朝貢の礼を廃止すること
B内閣を廃し、税制を改めカン官を廃止
C宮内省を新設し、王宮の行事に透明性を持たせること
14項目の改革案を発表し、旧弊の一新の改革を実現させようとした。

29 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:53:42 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発B

国王高宗も王妃一族に実権を握られ、何一つ思い通りにならなかった為、金玉均らの改革派の近代化政策に快諾し新政府の樹立ができたのだが。
守旧派(親清派)の王妃は巻き返しを図る。
王妃が清帝国の袁世凱に、またもや助けを求めたのである。
袁世凱は2000名の清帝国軍を率いて王宮を襲撃した。
守っていた韓国兵は、逃げ出したり清帝国軍に寝返ってしまい、守っていた日本軍140名は窮地にたたされた。
清帝国軍は、金玉均達が日本公使館に逃げ込むと、治外法権の公使館まで襲撃した。
日本公使館は焼き討ちされ、日本人40人が惨殺されました。その中には日本の婦人も含まれていました。
日本軍や公使、改革派の金玉均や朴永孝ら改革派は日本へ逃れました。
朝鮮に残った改革派やその家族は三親等まで虐殺されました。
改革派の計画が粗略であり、韓国兵の寝返りや改革派の中に密告者がいた事などが3日天下に終わった原因でした。

30 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:54:52 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発C

日本人が気がついたのは、朝鮮の独立を支援しようと思えば、必ず支那との対決は避けられないという事実でした。
朝鮮内部の改革派を支援しても、清と朝鮮王妃一族が改革派の動きを封じ込めてしまうのです。
朝鮮の近代化は清帝国と朝鮮人自らが放棄したのでした。

31 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:55:51 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発D

改革派のクーデターが失敗後、金玉均らは日本に逃れた。
朝鮮国内に残った者は、それぞれ虐殺されました。
『朝鮮では逆賊は三族まで滅ぼす』という掟があり、それぞれの遺族は殺害されたり、自殺したり奴隷として売られた。
福沢諭吉は危険をおかして金玉均らを自邸にかくまい、安全の為、金玉均には岩田周作、朴永孝には山崎水春というように日本名を名乗らせます。
身柄引き渡しを朝鮮政府が要求しますが、日本は拒否します。
日本政府は金玉均を手厚く保護し、月給50円を支給します。
そんな中、韓国の国王や袁世凱は、日本に刺客を放ち金玉均らの暗殺を計ります。 袁世凱は二万両の懸賞金をかけるしまつ。
しかし、日本人の同志は命懸けで金玉均を助け、日本国内を転々とさせて、凶刃を免れました。
1890年に金玉均が東京に戻った時に、清帝国の李経方から清帝国を訪ねるよう招請状が送られてきました。
金玉均は李経方が清の駐日公使であった時から親交があり、会談をすれば新しい局面が打開できるのではと大いに喜んでしまった。
因みに、李経方は李鴻章の娘を妻としており李鴻章とパイプがあった。

32 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:57:13 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発E

李鴻章
直隷総督北洋大臣として朝鮮や日本を担当していた清帝国の実力者
金玉均は1894年日本汽船の西京丸で上海に到着、アメリカ租界(中国国内のアメリカが借りた土地)にあった日本旅館に投宿した。
そこで、韓国の国王の放った刺客の洪鐘宇に暗殺されてしまった。
43才であった。
実は、韓国国王と李鴻章の仕組んだ罠であったのです。
金玉均の遺体は清帝国軍艦で朝鮮に送られ、八つ裂きにされバラバラにされた肉塊は、漢城を振り出しに朝鮮八道を引き回され街路に曝された。
日本では、いかなる罪人でも死者は仏様であり、死者に鞭を打つことはないし、手厚く葬る。
しかし、中国と朝鮮では反逆者は、生きたまま切り刻まれ曝される事になっており、死者となっても辱めを受けるのです。
江沢民前主席が小泉前首相の靖国神社参拝を『絶対に許さない』と宣言したのも、中国文化が死者を辱める文化であり、敵の死体を八つ裂きにして曝すことが、権力者の権威を示す事になるからです。
やはり、中国人は永遠に中国人であり、朝鮮人は永遠に朝鮮人なのです。

33 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:58:44 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発F

金玉均の妻は奴隷として売られました。金玉均が李鴻章と韓国国王の刺客により暗殺され、八つ裂きの刑に処された事が日本に伝わると、日本の人々は激昂し『ビン妃(韓国王妃)撃つべし』の勢いに拍車がかかった。
韓国の政治や軍事を牛耳る王妃が元凶であるとの意見が沸き起こったのでした。
5月20日には浅草本願寺で金玉均の英魂を鎮めるために盛大な葬儀が行われた。
甲申事件は李氏朝鮮が西欧や日本のように近代化し、立憲君主制を敷く大きなチャンスだったが、近代国家への脱皮する可能性を決定的に不意にしてしまったのです。
この事件は、中国と朝鮮の文化は近く、日本は、この二カ国とは全く異なる文化やメンタリティーを持っていることが理解できました。
福沢諭吉が私財を投じて尽力した末に、朝鮮人と中国人を見放したのも良く理解できるのでした。

34 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 01:59:59 ID:EFnDG/xd0
甲申事件の勃発G

日本政府は、日韓併合後に金玉均ら改革派の生き残っていた遺族に、金一万円を下賜し、その近代化への偉業を讃えたのでした。

策謀をめぐらして刺客を送り、金玉均を暗殺して死体を八つ裂きにし、三親等まで滅ぼす中国文化と朝鮮文化。
朝鮮人とはいえ、金玉均を手厚く供養し、遺族に見舞金まで下賜する日本文化とは全く異なる。

実権を握る韓国王妃と韓国王室は、中長期的な視点がなく、清帝国に尻尾を振ったかと思えば日本に尻尾をふり、時にロシア帝国が優勢と判断すれば、ロシアに尻尾ふるしまつ。

邦人が朝鮮王朝の猫の目ような変節ぶりに振り回され、犠牲者となった事は、怒りさえ覚えます。
朝鮮王朝内部の権力闘争は熾烈を極め、指導者の無能ぶりは頂点に達していたといえましょう。

35 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:02:33 ID:EFnDG/xd0
大阪事件の勃発

1885年

壬午事件、甲申事件や長崎清国水兵事件などで日本人が朝鮮人や清国人から惨殺される事件が起きた事により、日本国内の世論は激昂して清帝国との開戦を主張するようになった。
旧自由党員、大井憲太郎らは、再び金玉均ら朝鮮改革派を支援し朝鮮独立を勝ち取ろうとして画策したが、朝鮮渡航前に計画が発覚し逮捕される事件が起きた。
まさに、日清戦争開戦前夜、世論は清帝国撃つべしの世論が沸き起こっていたのでした。

36 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:06:07 ID:EFnDG/xd0
★清帝国側の日清戦争前の日本評価はどうだったのか。

琉球併合に際して駐日公使、如何章の意見具申『日本は国小さく貧しく…国債は二億を越え、旧士族の恨みもある。
…清国に伝えられる事情の多くは誇張である』として、今、清帝国がつよく出れば引っ込むといっています。
朝鮮の壬午事件のあとに、登承修の日本威服説では『日本は持っている金は使い果たし国債に頼り、流通は紙幣に頼っているが、
有事にはそんなものは紙屑になる。英独米への借金も繰り延べしようとしている。こんな貧乏で国家といえるだろうか』と言い清帝国の富強と較べて論じています。
他方、朝鮮に対しては、李鴻章は『日本は近代化と言っているが、
そのために国庫が窮乏し、外国に事を構えざるを得ない状況にある』と言って、日本が朝鮮を狙っていると警告します。
実は、清帝国の富強、日本の貧乏は日清戦争までは言うを待たない事実だったのです。

37 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:06:58 ID:EFnDG/xd0
★何故、日本が琉球併合と台湾出兵に成功したのか?

台湾出兵時の清帝国、総理衛門の文章『本件は日本が勝手な事をしたのであって、わが海軍力にたのむに足るものがあれば議論の要もないのに残念である。
わが自強の計は一日もゆるがせにすべからず』とあり。
当時の海軍力が日本に劣っていたからガマンせざるをえなかったと言っています。
日本が沖縄県を設置すると、李鴻章は『外侮が重ねて来たって窮りない。正に奮起せざるべからざる秋である。
まず急いで軍艦四隻を買わなければならない。
数年後に海軍が整備されれば、実際に海を超えて日本を攻めなくても、その用意さえあれば、
日本の傲慢さも、このために少しは衰え、各国が清帝国を軽蔑することも漸次消滅するであろう』と上奏します。
台湾出兵や琉球併合時は日本の海軍力が勝っていたからできた事だったのです。
しかし、清帝国が李鴻章の献言を容れて軍艦をガンガン買いあさると、今度は形勢が逆転してしまい、清国政府で東制論(日本への侵略論)が高まり
長崎清国水兵事件が起こるなど、日本の安全保障が危うくなったのでした。

38 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:07:30 ID:EFnDG/xd0
★清帝国側の明治8年頃の日清両国の戦力分析や情報収集能力

明治政府は鉄鋼艦『扶桑』と鉄骨木皮艦『金剛』『比叡』を英国に発注します。
如何章は『あれは鉄甲ではなく鉄皮らしい』と言い、李鴻章は『聞くところでは五、六の鉄皮でなく、四寸の鉄甲だそうだと』
日本の軍事機密であるはずの軍艦の装甲の厚さを推測しています。
登承修は上奏し『開戦を明言する必要はないが、軍艦を集めて示威をして、その上で琉球を滅ぼした罪を責めれば、
日本人も弱みがあるので戦争はしまいし、
琉球事件の趨勢を変えられるだけでなく欧州諸国も清帝国の軍備充実を知りフランス人の広西蚕食も解決するだろう』と論じ、
張という臣官も『今すぐ日本を征伐せよとは言わないが、軍艦を作り山東と台湾を固めたあとで、琉球事件を問責し、軍艦で示威をして国交を断絶すれば、日本は驚いて防備を増強して国費を消耗してしまう。
わが方は守りは万全たがら日本はどうすることもできない。そこで日本が弱ったところで攻撃すれば一戦で勝負が決まるだろう。
これに反して優柔不断で座視して軍備も強化しないと、数年間は平穏無事かもしれないが、やがて、さいじたる日本も遂に清帝国の巨患となるだろう』と上奏しています。
清帝国政府は、かなり優れた情報分析力を持っていた事が伺えます。

39 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:08:42 ID:EFnDG/xd0
★日清の勝敗を分けた明治大帝の質素倹約

李鴻章は、日清両国のを分析検討し、東征(日本への侵略)を進言する重臣たちの考えとそう変わらないが、今は其の時期ではなく、
まだ準備がないのにそういう事を言うと日本も外国に頼り対抗策を講じるので、表向きは静かにして海軍力を強化するのが先決だという判断を下します。
しかし、西太后は建艦費を贅沢な庭園を作る費用に流用してしまい百年の悔いを残す事になります。
日本は清帝国政府李鴻章の指摘の通り、窮乏財政で財政難、財源の捻出しようが無い有り様。
明治19年に建艦公債を発行して『松島』『厳島』『橋立』の三景艦の建造を急ぎますがそれでも費用が足りません。
明治大帝は自ら質素倹約を実行し宮廷費を下賜されました。
国民も明治大帝の行為に感動し、建艦寄付運動が盛り上がり、どうにか建艦を続けます。
ですが、民権意識の高揚していた議会が建艦費を全額削除してしまいます。
これを憂えた明治大帝は、六年間宮廷費を節約して毎年30万円を下賜され、
官吏は特別の事情ある者を除き六年間月給の十分の1をを建艦費に返納するということとなり、一転して議会も大建艦計画を満場一致で採択します。
日本は明治大帝自ら質素倹約につとめて建艦費を捻出、国民国家を上げて一致団結し建艦競争に打ち勝とうとしますが、
清帝国はトップの西太后が贅沢三昧にふけり、官吏は私服を肥やす有り様。
日本の勝利が見えてきたのでありました。

40 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:10:03 ID:EFnDG/xd0
★腐敗極まる朝鮮王朝

韓国王高宗の王妃一族が専横を極め、李朝の政道は乱れに乱れていた。
王妃が政治に干渉し綱紀は乱れ、王妃一族が政府の要職を占めて、正義の士を斥け、売官、収賄、暗殺などの悪弊の限りを尽くしていた。
宮中は百鬼夜行の巣窟の観を呈していた。
しかも悪弊は朝鮮半島全土に波及し、宮中王族権官を始め、貪官汚吏は豪奢に浸り、長夜の宴を張って歓楽をほしいままにしていました。
ために民力疲弊し、一般の人々は塗炭の苦しみに喘ぎ、庶民の怨嵯の念国中に募るありまさでありました。
それに比べて、日本皇室は、明治大帝自ら質素倹約につとめて近代化を推進し、昭憲皇后は慈悲の心厚く国民の救済に当たられました。
朝鮮は没落し、日本は大帝国になったのは言うまでもない事実であります。

41 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:10:53 ID:EFnDG/xd0
★中国三大悪女、西太后に助けられた日本

1851年16才の時に威豊帝の側室に選ばれ後宮に入ります。
1856年男子を生み(後の同治帝)皇后に次ぐ地位を得ます。
威豊帝が亡くなると、同治帝が即位し、背後から皇帝を操り1908年74才で亡くなるまで中国全土を支配し国政をほしいままにしました。
映画『西太后』を思い出して下さい。
威豊帝の寵妃であった女性の手足を切断し壷に入れて生きたまま観察し喜ぶシーンは残酷そのものです。
中国人はそのような人々であり文化なのです。
清帝国は西太后により滅亡せざるを得なかったのです。
他にも、ライバルの東太后や、光緒帝、を暗殺したとか、珍妃を井戸に投げこますたなど、悪逆非道の限りを尽くします。
日本との建艦競争に使う予定の資金を贅沢三昧に使い果たし、庭園整備に当てしまうなど清帝国を自ら滅ぼした罪は現代中国でも糾弾されています。
西太后は遺言を残しています。
『以後、二度と国政に婦人を関与してはならぬ』
皮肉としかいいようがないですね。

中国は西太后、朝鮮は王妃一族が政治をほしいままにしたために滅亡してしまいました。
日本は名君、明治大帝の尽力により、世界の覇者に名乗りを上げるのでした!

42 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:12:01 ID:EFnDG/xd0
★東学党の乱が勃発@
1894年
朝鮮王朝の腐敗や両班(朝鮮貴族)の虐政に反対し貪官汚吏の追放を目的に農民達が一斉に蜂起したのです!
これを機に王妃一族の打倒を計る大院君(王の父)
東アジアに影響を増すロシアを恐れて東学党に政権樹立をそそのかす清帝国
清帝国の策謀を警戒する日本
色々な勢力が入り乱れて朝鮮の主導権争いを演じた内乱でした。
朝鮮の米価は非常に高騰しており、朝鮮地主と日本の商人は高収益をあげていました。
必然的に高い値段で米を買わなければならない庶民の不満は高まります。
朝鮮地主は、庶民の不満をそらせるために全ての責任を日本人の仕業であると反日感情を焚き付けます。
加えて既存の支配階級である両班は儒教的な価値観に拘泥して近代化を恐れ、高まる朝鮮支配階級に対する不満を反日へとすり替えたのです。(現代とソックリです)
東学党は指揮が高く韓国軍は戦意喪失し、宮廷内は動揺し外国に援軍を要請します。
六月八日、清帝国は袁世凱1500人の兵力を牙山に上陸させます。
六月九日、日本は、壬午、甲申事件で、公使館が焼き討ちされ、日本人が多数殺害されていましたから、
公使館と日本人の保護を目的に駐韓公使大鳥圭介が軍艦八重山に乗って陸戦隊300を伴い漢城(ソウル)に帰任、7000の混成団も続いた。

43 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:13:27 ID:EFnDG/xd0
東学党の乱勃発A

日清両国の衝突を恐れた朝鮮政府は、東学党と妥協するように方針転換した。
韓国王高宗は、首謀者である全奉準と交渉し改革をすすめる事を約束した。(全州和約)
@不正腐敗官吏や横暴な富豪両班等を処罰すること
A理由のハッキリしない税金をかけないこと
B土地は均等に分配耕作ができるようにすること
C官吏の採用には、一切門閥を打破し公平に人材を登用すること
いかに朝鮮が腐敗しきっていたかがわかります。
しかし、約束は守らないのが朝鮮のルール、韓国王朝は和約を裏切り、農民軍を攻撃し全奉準を捕らえて投獄した。
腐敗し国防の気概を欠き、武を軽んじ、他国に安全を委ねた朝鮮自らが招いた悲劇でした。

44 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:14:42 ID:EFnDG/xd0
★清帝国との決戦を前に誕生した連合艦隊@

1893年の5月に陸軍参謀本部と同格の軍令部の誕生によって、日本海軍は文字通り一本立ちした。
その日本海軍の真価が問われる事態が目前に迫っていた。 清帝国との戦争である。
徳川幕府が倒れ、明治新政府になったばかりの日本に清帝国に対抗できる軍備はない。
仮に清帝国相手に戦うとすれば、日本は日本海と黄海の制海権を手にしなければならない。
陸戦部隊の輸送もままならないからだ。 それには海軍力が決め手になる。
一方、当時清帝国海軍は、北洋、南洋、福建、広東の四水師(艦隊)で構成されており、黄海から渤海湾の警備についていたのは北洋水師(水師提督・丁汝昌)で、清帝国海軍の精鋭艦で編成され東洋一を誇っていた。

45 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:15:41 ID:EFnDG/xd0
★清帝国との決戦を前に誕生した連合艦隊A

明治21年(1888)に編成された北洋艦隊は、戦艦、巡洋艦、魚雷艇など大小50余隻、約5万トンに及ぶ戦力を保持していた。
その中心になっていた戦艦『定遠』『鎮遠』で、当時の世界一流戦艦でした。
この二艦は明治15年にドイツで進水した甲鉄艦で、排水量7335トン、30センチ主砲四門、15センチ速射砲四門、速力14・5ノットを誇った。
明治中期の日本海軍には、この『定遠』『鎮遠』はもちろんのこと、北洋艦隊に対抗する海上戦力はなかった。
そこで日本政府は明治23年度以降、陸軍軍備の拡充と平行して海軍の大拡張に乗り出した。
既に日本は1500トン級の巡洋艦の国内建造は行っていたが、本格的な一等巡洋艦の建造経験は無かった。
そこで、のちの三景艦といわれる『橋立』『松島』『厳島』の三艦の建造に踏み切った。
設計は日本が行い『松島』『厳島』の建造はフランスの造船会社に発注し、『橋立』は横須賀造船所で国産することにした。
三景艦の要目は同じで、排水量は4210トンと『定遠』『鎮遠』には遠く及ばず、兵装も主砲の32センチ砲は一門で、これも及ばなかった。
しかし、速力は16・7ノットと上回り、副砲の12センチ速射砲も12門(橋立は10門)と勝っていた。
この速力と速射砲の優劣が、のちの海戦で勝敗を決めるのである。
この三景艦に続いて、日本は同じクラスの巡洋艦『吉野』『浪速』『高千穂』をイギリスに発注して竣工させ、
ここに軍艦31隻、合計排水量5万9500トン、これに水雷艇24隻を加えた日本初の本格的艦隊を作り上げたのである。
その戦力は、清帝国の北洋水師と互角に戦えるものだった。
連合艦隊の誕生である。

46 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:16:58 ID:EFnDG/xd0
日清戦争勃発@

豊島沖海戦
明治27年春、朝鮮の覇権を競ってきた日清両国は、遂に軍隊を派遣して睨み合いの状態になっていた。
きっかけは甲午農民戦争(東学党の乱)ともいわれる反政府暴動が起き、日清両国は『朝鮮の内乱鎮定』を名目に派兵し、そのまま駐留を続けていたのである。
そして6月22日、大日本帝国政府は御前会議で実質的な対清帝国開戦を決定
7月19日、朝鮮政府に対して『清帝国軍が永く朝鮮国内に駐留するのは朝鮮の独立を侵害するものなれば、速やかにこれを国外に駆逐すべし』と要求、7月22日までに回答せよと迫った。
同時にこの日、海軍は常備艦隊(司令長官伊東中将)と警備艦隊を改称した西海艦隊(司令長官相浦少将)を持って、日本海軍最初の連合艦隊を編成し、司令長官には常備艦隊の伊東中将を任命した。
こうして臨戦態勢を整えた日本政府は、朝鮮政府から清帝国軍隊の撤退の依頼を受けた。

47 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:17:36 ID:EFnDG/xd0
日清戦争勃発A

豊島沖海戦
7月25日、清帝国軍攻撃の大義名分を手にした日本軍は直ちにに行動を起こした。戦争である。
既にこのとき、伊東中将率いる連合艦隊の第一遊撃隊は佐世保を出港して(22日)朝鮮の仁川沖に向かっていた。
日本の開戦準備を知った清帝国の李鴻章(北洋直隷総督)も、増援軍を続々朝鮮に送りはじめた。
その第一陣は7月24日に上陸し、イギリス船籍の運送船に乗った第二陣の1000余名は、23日にタークーを出港、砲艦『操江』に護衛されて追走していた。
7月25日の早朝、常備艦隊司令官の坪井少将に率いられた第一遊撃隊の『吉野』『浪速』『秋津州』の巡洋艦隊は、平壌北方の牙山な布陣する清国軍を偵察するため、朝鮮半島西岸の豊島沖を航行していた。
そして、牙山方面から航進してくる二隻の艦影を発見した。第二陣の運送船を護衛するため出港してきた北洋艦隊の巡洋艦『済遠』『広乙』だった。

48 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:18:18 ID:EFnDG/xd0
日清戦争勃発B

豊島沖海戦
日清両国艦隊は戦闘態勢に入り、距離3000メートルに詰まるや一斉に砲門を開いた。
午前7時12分だった。
砲戦は一時間二十分にわたったが、スピードて砲数で勝る日本艦隊は終始清帝国艦隊を圧倒し、『済遠』は損傷が酷くなり直隷湾に向かって逃れ『広乙』は朝鮮半島の西岸に乗り上げ座礁した。
イギリス船籍の運送船と『操江』が姿を見せたのは、この海戦の最中であった。
『浪速』艦長の東郷平八郎大佐はイギリス船籍の運送船に突進して停船を命じ、更に空砲二発を放って投錨を命じた。
東郷は副官の人見大尉を運送船にやり、イギリス人船長に降伏を勧告しました。
船長は承諾したが、清国の指揮官は投錨も降伏も拒否してきた。 『この船はイギリスの船であるから日本軍の命令に従う必要はない』というのだ。
東郷平八郎大佐は『乗組員は直ちに船をされ』という信号旗を掲げ、乗組員に砲撃を命じた。
砲弾は運送船に命中2000トンの運送船はたちまち白煙と炎を上げて沈没した。
東郷平八郎大佐が運送船とやり取りをしている間『秋津州』は『操江』に向かっていた。
すると『操江』は早々と降伏旗を掲げ、戦意のない事を示した。『秋津州』は一発の砲弾も使わずに『操江』を捕獲したのでした。
この戦いが、日本の連合艦隊にとって初勝利となった。
戦闘海域の名前から、日本はこの海戦を『豊島沖の海戦』と名付けた。

49 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:19:43 ID:EFnDG/xd0
日清戦争勃発C

壊滅した清帝国北洋艦隊
明治27日7月31日日清両国は国交を断絶して、正式に戦争状態に突入した。
山縣有朋大将を軍司令官とする陸軍の第一軍は続々と朝鮮に上陸し、平壌を目指して進軍、9月15日の未明を期して平壌総攻撃に入った。
この陸軍の平壌総攻撃に呼応して、伊東中将の連合艦隊も清帝国艦隊撃滅を期して黄海に出撃していた。
9月17日の午前11時30分、旗艦『松島』を先頭にする連合艦隊は、大狐山沖で丁汝昌提督の北洋艦隊を発見した。
この時の連合艦隊の陣容は次のようだった。
本隊、松島、厳島、橋立、千代田、扶桑、比叡。
第一遊撃隊、吉野、秋津州、高千穂、浪速
補助艦、赤城、西京丸(武装商船)
このときの北洋艦隊は『定遠』『鎮遠』を中心にした主力14隻に水雷艇6隻が随行し、日清の戦力は互角だった。
距離3000メートルに縮まり、両国艦隊は砲撃を開始した。


89 日出づる処の名無し New! 2007/11/04(日) 23:29:43 ID:anXHCOpv
日清戦争勃発D

壊滅した清帝国北洋艦隊
時に午後零時55分だった。
いずれの艦も速力で清国艦を上回る連合艦隊は、坪井少将の第一遊撃隊が砲撃しながら単縦陣で敵の側面を走り抜け、反転して本隊に合流する戦法を取った。
その間は速射砲の一斉攻撃で敵の中小艦を狙い撃ちし、『定遠』『鎮遠』を孤立させる作戦に出た。
常に、単縦陣で走り回る日本艦隊の作戦は図に当たった。
北洋艦隊巡洋艦『致遠』『超勇』『揚威』『経遠』『広甲』を次々と撃沈し、戦艦『定遠』海防艦『平遠』は炎に包まれて戦線から脱落していった。
海戦は四時間半も続いたが夕暮れとともに北洋艦隊の残存艦は旅順と威海衛を目指して遁走していった。
連合艦隊の被害は軽微で、沈没は一隻も無く、死傷者240名を出しただけだった。
以後の清国艦隊は、威海衛と旅順に逼塞したまま出撃せず、翌年陸軍が威海衛総攻撃を敢行するや、北洋水師提督丁汝昌は降伏し、自らは服毒自殺を遂げて艦隊は壊滅した。

50 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:21:24 ID:EFnDG/xd0
日清戦争の勃発E

☆大日本帝国の連戦連勝☆
陸軍も成歓と牙山で清帝国軍に大勝。
山縣有朋大将率いる第一軍12000は9月15日に平壌に集結していた15000を攻撃し粉砕した。
制海権を背景に、大山巌陸軍大将に第二軍を編成し、1898年10月24日、遼東半島の花園口に上陸、
11月までに金州、大連及び旅順を攻略した。
10月25日には第一軍が朝鮮から鴨緑江を越えて遼東半島の北部、九連城、鳳凰城、大狐山を制圧し、翌年はじめに、牛荘、営口、田荘台を攻略した。
この間、第二軍は山東半島栄成付近に上陸し威海衛軍港の陸岸を完全に占領した。
正に破竹の勢いの大日本帝国陸軍は、強大な清帝国に連戦連勝したのでありました。
大日本帝国海軍も豊島沖海戦と黄海海戦で連勝し北洋艦隊を壊滅させた。
世界を震撼させる栄光の連合艦隊の歴史は、正に始まったのでした。

51 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:22:44 ID:EFnDG/xd0
☆日清戦争当時の戦況について☆
日本軍の軍紀と中国軍の軍紀
フランス人国際法学者フォーシュは、日本政府を讃えて語った。
『事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪える事を示した。日本軍は日清戦争で、敵(中国人)が国際法の原則を無視したにも関わらず、自らこれを尊重した』
大日本帝国の軍人である事を誇りにしていた日本軍人がはじめて遭遇した清兵(陸軍)は、卑怯にして残虐極まりない軍隊であった。
清兵の捕虜になると四肢を切り分けられ、生きながら火炙りにされたり、磔にされた。
『日本軍の屍に向かっても、死者首を斬り、面皮を剥ぎ取り、或いは男根を切り取り、胸を割いて石をつめこむ』か
『首級は両耳を穿って紐やはりがねを通し、あるいは魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通し、持ち運びしやすくしてあった』日本軍人の戦記にはこのような記述がよくみられる。

52 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:27:43 ID:EFnDG/xd0
講和条約

日清戦争は日本の勝利で終わり、講和の段階に入った。
既に1894年10月、英国は戦火が中国本土に拡大することを恐れて駐日公使を通じて講和を打診していた。
ロシアも米国も戦争の集結に関心を持っていた。日本は遼東半島と威海衛を完全に占領した後、清帝国も講和申し入れを受け入れることになる。
1895年3月19日、清帝国の全権李鴻章は門司に到着し、翌日から日本の全権伊藤博文、陸奥宗光と下関の春帆楼で、講和会談が始まった。
3月24日、第3回談判の帰路、李鴻章全権が日本人の暴漢小山豊太郎に狙撃され、顔面に負傷した。
3月30日に休戦条約に、次いで4月17日、下関条約に調印した。
重要な条件は次の三点である。
第一に清帝国が朝鮮の独立を承認すること。
第二に遼東半島、台湾、ホウ湖列島の割譲。
第三に賠償金二億両(約三億円)の支払いである。
台湾とホウ湖列島を支配することで、日本は帝国となり、二億両の賠償金は日本経済の躍進に大きな役割を演じた。

53 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:28:47 ID:EFnDG/xd0
☆三国干渉@☆

理不尽なロシア、フランス、ドイツによる横やり
問題は遼東半島割譲であった。
下関条約の調印6日後に、ロシア、ドイツ、フランスの三カ国が日本に対して、遼東半島の放棄を要求した。
三カ国の主導権を握っていたのはロシアである。
4月24日、広島の大本営で御前会議が開かれ、@拒否するA列国会議に決定を委ねるB返還する
三案について激論がたたかわされた。
結局第二案をとり、列国会議を召集してその決定に服することになった。
しかし、肺肝のため兵庫県の舞子で静養していた陸奥宗光外相は、いわゆる枕頭会談で、問題を国際化すればさらに干渉を受けるおそれがあるとし、『虻も蜂も補足しえざるの愚を招く(すべてを失う)』と説いた。
陸奥は下関条約はそのままあくまで批准書を交換した上で、個別の条約により遼東半島を清帝国に還付すべきであるとの意見を完徹した。
即ち、5月4日、日本は遼東半島の放棄を決定し、11月8日遼東半島還付条約に調印して、代わりに3000万両を得た。
日本国民は露仏独の三国干渉に激怒し、ロシアに対して敵愾心を高めたかは想像に難くない。
その後、こともあろうかロシアは1898年3月27日、清帝国との間に旅順・大連湾租借条約を結んで日本に還付を強いた遼東半島を自ら手に入れた事は、日本国民を憤激させた。
ロシアの背信と野望を打ち砕くために臥薪嘗胆するという決意が固まったのである。

54 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:30:13 ID:EFnDG/xd0
☆三国干渉A☆

陸奥宗光外相は冷静に分析し、三国干渉に対して見事な判断を下した。ロシア、フランス、ドイツ、清帝国を相手に戦端を開くわけにはいかないのだ。
陸奥宗光は国民を戒める言葉をのこしている。『我が国民の情熱は、諸事往々主観的判断のみに出でて、全く客観的考察を入れず、ただ内を主とし、外を観ず。進んで止まる事を知らざる形勢なり』
即ち、日本の国力を勘案して、進むべき時と退くべきを見極める事が寛容なのです。
ロシアと戦う決意はこのとき固まったのでした。
当時の日本国民は、もろく敗退した清帝国を軽蔑し中国人を『チャンコロ』と称するようになったのは日清戦争に清帝国が負けた後であった。

55 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:31:09 ID:EFnDG/xd0
★北方の脅威ロシア帝国★

ロシア帝国ロマノフ王朝の膨張主義は、蒙古に制服されたロシアが、ロシア民族の安全保障のために、国境を一センチでも遠くの東の方にもとうとして、東へ東へとタタールを追っていった歴史であった。
仮に元冦が樺太を通して北海道へ進出してきていれば、我が国にも蒙古帝国の衰退に従って、ロシアの東漸に似た歴史の発展があったのかもしれない、
当時の北方には、大軍を動かす道路も、これに補給する物資も労務者もなく、朝鮮半島と華南経由が軍隊を動かす唯一の方法でした。
このような地勢学的条件はつい最近までも同じです。
日露戦争の時代でも、戦場はもっぱら朝鮮半島、満州であり、樺太や千島は極めて局地的な部隊間の戦闘しか行われていない。
このシベリアの不毛な地域に膨張主義のロシア帝国が進出してくるのです。

56 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:31:58 ID:EFnDG/xd0
★北方の脅威ロシア帝国★

ロシア帝国の進出の動機は、15〜19世紀までの欧州世界の拡大の動機と同じです。
地理的発見、制服略奪と通商の利益が目的です。
近代帝国主義では植民地支配による市場と資源の独占、ひいては輸出市場の独占がその目的となります。
シベリアに関しては、19世紀まではテンやラッコの毛皮ぐらいしか経済的利益は無かったようです。
むしろ、厳寒の地域であることにより、財政的に多大な出費と、多くの犠牲を払いながらもロシア帝国は東へと膨張し拡大していったのです。
ロシア帝国によるシベリア探検は歴史が古く、17世紀にはカムチャツカを越えてアラスカに到達し、1706年にはピョートル大帝の名前でカムチャツカ半島の領有を宣言します。

57 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:32:34 ID:EFnDG/xd0
★力こそ正義の時代★

欧州の列強の一つが、カムチャツカ半島を発見して占有したという事は、競争関係にあたる他の欧州列強にたいしては意味があることですが、カムチャツカの先住民に取っては単なる侵入、不法占拠です。
当時の欧米列強は、キリスト教を信ずる白人以外は、国や民族としての法的な主体として考えていなかったのです。
アジアやアフリカでは『無主の土地』といわれて『発見され』占有の対象とされていたのです。
ロシアのシベリア進出は日本や清帝国、属国朝鮮に取って大きな脅威であったのです。

58 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:33:05 ID:EFnDG/xd0
ロシアの樺太襲撃

実は、樺太は日本がロシアよりも先に進出していたのです。
1806年ロシアのフボォストフ海軍大尉の襲撃事件の際に、アニワ湾に松前藩の運上屋と付属施設があったからです。
二年後の間宮林蔵の全樺太探検を待つまでもなく、北部も南部も日本のものだったのです。
例えば、グリーンランドは昔からデンマークの人達がすんでいましたが、そこに、ノルウェーが東部の人の住んでいないところに漁業権、狩猟権を主張してきたのです。
もちろんデンマークは国際裁判に訴えて勝訴します。
しかし、ロシア人はルールを守らないのが大好きな民族ですし、領土欲は世界一です。
フボォストフの樺太襲撃計画の背後にあったロシア側の考えによれば、
『このような暴力的占領は不正にみえるが、日本人の樺太占領だけが正しく、列強諸国による占領は不正であるとは言えない。
樺太の真の所有者であるアイヌの同意を得ればよいのである』だというのです。
フボォストフは上司のレザノフから、日本の物資は分捕る事とするが、船に積みきれない分は土民に分与し、
土民をつとめて丁重に待遇すべしというように、いろいろ原住民を宣撫、懐柔するよう指示を受けています。
林子平は、『三国通覧図説』の中で、ロシア人は『武力、暴力を使わず、寒いと、胡椒と衣服を与えて体を温めさせ、砂糖や良い酒を与えて喜ばせ、
時には大砲を轟かせて威を示し、蝦夷人を懐柔しているそうだ』とオランダ人の言葉を引用して述べています。
もちろん、ロシア人はいったん植民地にしてしまえば、カムチャツカの原住民に対して過酷な対応をしたようですが、そのようなことは帝国主義時代ではどこの国もしていた事なのです。
惜しむらくは、我が国に豊富な資源が眠る樺太があれば、より一層国際競争力のある国になっていただろうと思うのです。
まさに、ロシアに何度も煮え湯を飲まされる歴史は、このときから始まったのでした。

59 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:34:27 ID:EFnDG/xd0
★一度取ったものは離さない。

ソ連崩壊までのロシアの考え方を示すものとして、『一度ロシアの国旗が掲げられた土地においては、けっしてそれが降ろされてはならない』というニコライ一世の言葉があります。
愛軍条約で黒竜江北岸がロシア領となる7年前、ネブェリスコイが6人の船員と一門の大砲を乗せた船で黒竜江を遡って、上陸してロシア国旗を掲げて土地を皇帝にあやかってニコライエフスクと名付けます。
当時のロシア政府は欧州の政情が緊迫していたので、清帝国と衝突することを避けようとネブェルスコイを軍法会議にかけますが、皇帝ニコライ一世が介入して特赦を行っってしまいます。
そのときに発したのがこの言葉です。
当時の欧州では大きな反響を呼び起こしました。
当時の清帝国が本気で軍隊を差し向ければ、ロシア兵6人程度の人数ではどうすることもできなかったでしょうが、
当時の清帝国は太平天国の乱で忙殺され、英仏の介入などによりロシアは漁夫の利を既成事実にすることに成功したのでした。
外交にしろ、軍事にしろ、漁夫の利を狙う事は有効です。

60 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:35:06 ID:EFnDG/xd0
★極東進出したロシアが必要としたもの
@大洋への出口の確保と不凍港の獲得
A通商
ロシアは、他の帝国主義国とは違い、経済性を度外視して拡大した版図を維持するための補給の必要性が高かったのです。
19世紀も半ばになると1897年、ニコライ一世がムラブィニヨフを東シベリア総督に任命した時に、
『もし他国がカムチャツカを占領しても、イルクーツクにいる汝は約6ヶ月後にそれを知るであろう』と言ったそうですが、東シベリアにおける交通の不便さや物資の不足は言語に絶する状態でした。
ロシアは早くからペトロパブロフスクやオホーツクを基地としていましたが、必要な物資は、はるばる喜望峰かマゼラン海峡を通り運んでいたのです。
ですから、日本と通商して穀物や補給ができれば有り難いし、当時アジアにおける唯一の西欧の安定した植民地であるルソン島と通商するために、その通り道である日本の港が使いたかったのです。
また、シベリア唯一の輸出品である毛皮の市場である中国との貿易のためにも日本の港を欲しがっていたわけです。
ロシアがシベリアを維持、開発するために日本の開港を迫ったのでした。

61 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:36:02 ID:EFnDG/xd0
★レザノフの日本遠征計画★

フボォストフの樺太の松前藩の進出地を襲撃した事件も、実施の段階では独断専行に近いものがありましたが、レザノフの日本遠征計画の一部でした。
その計画によれば、まず樺太を襲撃して日本人を撤退させ、ついで北海道を破壊して、日本の漁業を(北方が漁業の中心と判断していた)
壊滅させ、ついで日本本土の沿岸航路を妨害して海運を途絶させれば、
日本国民は物資欠乏に苦しんで、日本政府の鎖国政策を非難して脅せば、日本はロシアに港湾を開放するだろう。
つまり、北方の日本人入植地を奪取しながら、日本に開港と通商を迫る戦略だったのです。

62 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:36:44 ID:EFnDG/xd0
極東ロシアに取っては日本列島が障害であった。

ウラジオストクのロシア艦隊にとって、有事の際、間宮海峡は浅くて通れず、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡の三海峡によって封鎖されてしまう可能性があるのです。
1860年に北京条約で沿海州が正式にロシア領になると、もう翌年の61年にはロシア軍艦が対馬に入って対馬藩の制止を排して上陸し、宿舎の建設を強行したり、土地の租借を要求したりします。
結局は英国の軍艦の圧力でやむなく立ち去りますが、このときのロシアの意図は明らかです。
その後、英国が朝鮮の巨文島租借(清の李鴻章の提案で朝鮮が受け入れなかった)を申し出たのも、逆にウラジオストク封鎖の意図からです。
いかに、対馬海峡が戦略的に重要かわかります。
これは現在もあまりかわりがありません。
日露戦争前、終始一貫して対馬海峡の自由航行を日本へ要求しています。
日本としては、自由航行は問題ないのですが、朝鮮半島をロシアが領有するような事になり、朝鮮半島南部にロシア軍港でもできたら、自由航行どころか、安全保障さえ危うくなってしまいます。

63 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:37:31 ID:EFnDG/xd0
★ロシア帝国は朝鮮半島領有を狙っていた★

当時のロシアが朝鮮半島領有を意図していたことは明らかです。
ロマノフの『満州における露国の利権外交史』によれば、ロシア帝国の関係者は、『朝鮮半島はロシア帝国の将来の領土であり、朝鮮半島の南端を日本に譲れば、
ロシアは戦略的にみて朝鮮の最重要の地域を自ら放棄し、自己の行動の自由を束縛するもの』と考えていました。
ウィッテはロシアの遼東半島租借にも反対した穏健派という事になっていますが、ロマノフによれば、ウィッテの考え方は
『ロシアが遼東半島に進出することは支那が反対するであろうが、朝鮮半島に進出するならば、
むしろ朝鮮半島に日本が進出するのを抑える事になるので支那は歓迎するだろうから、朝鮮を平和的に取ったほうがよい』というもので。
日本の抵抗については 『日本の朝鮮経営はいずれ財政的に息が切れるだろうから、シベリア鉄道が完成するまでに日本が朝鮮への出費で無力化(疲弊)していることはロシアが朝鮮を占領するのに好都合だ』と考えていたようです。
ロシアも朝鮮が金になるところとは考えていなかったんですね。
即ち、朝鮮を領有するのは出費がかさむ(損失)が、戦略的には重要という事は、現在もかわりませんね。
日本も大損害でした。

64 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:38:21 ID:EFnDG/xd0
★義和団★北清事変★

18世紀頃、山東省から直隷省にかけて義和拳教という宗教的秘密結社があった。
一種の拳法を使う宗教団体。
日清戦争で惨めな敗北を喫して以来、扶清滅洋をさけんで山東省に反乱をお越し、1900年には直隷省に入って、天津をへて北京に進んだ。
鉄道や電線を破壊し、教会、病院に放火し、外国人宣教師を襲い、外国製品を奪って拝外主義の大暴動となった。
清帝国の実権を握っていた西太后らは、義和団の乱を公然とたすけた。
北京で義和団に包囲された列国の公使館などをはじめ居留民多数を救出するため、日本を含む諸外国は出兵することとなった。
日本軍が8000人と最も多く、次いでロシア軍4500人、英軍3000人、米軍2500人、フランス軍800人、イタリア軍、ドイツ軍、オーストリア・ハンガリー帝国軍などである。
開戦2ヶ月後の1900年8月14日、北京は連合軍に占領され、1901年9月7日に最終議定書の調印となった。
清帝国は海関税及び、塩税を担保に四億5000万両という巨額の賠償金を課せられたほか、北京には外国軍隊の護衛する公使館区域が設けられ、北京周辺の防備は外国軍隊に任された。
中国の半植民地化は加速したのであります。
日本軍は数において連合軍最大であったばかりでなく、最も勇敢で、しかも軍紀が厳正であるという国際的評価を得た。
日本は日清戦争と北清事変により、大いに国威を高めたのでありました。

65 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:39:25 ID:EFnDG/xd0
★ロシアの南進★

1898年1月15日、伊藤博文内閣の西徳二郎外相とロシアの駐日公使ローゼンとの間で韓国問題について交渉がはじまり、
四月二五日、ロシアは韓国の独立を確認して内政に干渉しないことを約し、商工業に関する日本の優越を認め、日本はロシアによる旅順・大連の占領を黙認することになった。
ロシアが韓国を日本に一任すれば、満州を日本の利益の範囲外と認めるという西外相の満韓交換論は拒絶されている。
ロシアの膨張政策は1891年からシベリア鉄道の建設が始まったことで本格化し、1896年にはチタとウラジオストクを結ぶ東清鉄道の建設権を入手するまでになった。
ロシアはシベリア鉄道等の陸上ルートで英国の覇権に挑戦しようとした。
ロシア帝国の南進を差し迫った脅威と感じた日本は、英国と結んでロシアに対抗しようとする日英同盟派と、ロシアと協商して国益を守ろうとする日露協商派とに分かれて争った。
両派に共通するのは、陸海軍の軍備を充実することが必要だという一点である。
1896年から陸軍は7個から13個師団へ、海軍は5万トンから20万トンとする計画を着々と推進した。
まさに、三国干渉に対する臥薪嘗胆が始まったのでありました。

66 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:40:24 ID:EFnDG/xd0
★★@日英同盟★★

日英同盟を主張したのは加藤高明、小村寿太郎と元老山縣有朋であった。
彼らの代表として小村外相の考え方をみると、
第一に侵略的なロシアと協約を結んでも恒久的効果がない、
第二に領土的野心のない英国と結べばロシアに対抗でき、通商上の利益が大きい。という二点である。
これに反する日露協商派は、元老伊藤博文と井上馨である。
その理由は、英国と結んでも朝鮮問題を解決できないばかりか、日露間の軍事的衝突を招く恐れが大きい。というものであった。
伊藤はイェール大学の創立200年記念日に招かれ、名誉法学博士の学位を与えられる事になった。
1901年9月18日、伊藤は海路アメリカ合衆国に向け出発した。
3週間後の10月8日、小村外相は駐英公使、林に日英同盟条約について交渉する権限を与えた。
林公使は10月16日、英国のランズタウン外相と会談し、11月6日には英国側の第一次草案が林公使に手交された。

67 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 02:50:43 ID:XvUYfj4a0
なんだこのスレは・・・たまげたなぁ。

68 :大学への名無しさん:2007/12/02(日) 23:44:15 ID:QLwTbjGrO
日英同盟の続きまだかよ

69 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 21:53:49 ID:Cm2Jg3EA0
★★A日英同盟★★
日英同盟の背後にドイツの影

ドイツ駐英代理大使エッカルトシュタインは、ビスマルクの辞任後ドイツ外交を指導しようとした野心家であったが。
1901年3月ランズタウン英国外相に会って、英独同盟の可能性を打診した。
日本の駐英公使林が4月17日にランズタウン外相にあったのはエッカルトシュタインの示唆によるという。
ドイツが日本を加えた英独同盟の締結を構想したのは、英国と露仏同盟との間を割くことと、日露の衝突によってロシアの軍事力を極東に向かわせよう、という二点を狙っていたためらしい。
後にドイツはこの構想から抜けた為、第一次世界大戦で袋叩きにあう。
ロンドンの日英交渉が本格的段階に入ったころ、伊藤博文は大西洋を渡って11月13日、パリに着いた。
桂首相は伊藤によって日英同盟が妨害されることを恐れて、伊藤に当ててロシア訪問を断念するよう打電した。
一方小村外相はロンドンの林公使にパリへ出かけて伊藤博文に十分説明し、その賛成を取り付けるよう命じている。
1901年11月15日、伊藤博文は電報で、自分がロシアと意見の交換をとげるまで日英同盟を決定しないよう求めた。
11月20日、桂首相は、日英同盟交渉はもはや離脱できないという理由で、伊藤に対して逆に早くロシアへゆくよう打電している。
11月28日、伊藤博文は皇帝ニコライ2世に会い、12月2日にはラムスドルフ外相と、そして翌三日にはウィッテ蔵相と会談した。
伊藤はラムスドルフとの会談で朝鮮半島について妥協点を探ったが、結局実を結ばなかった。

70 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 21:55:06 ID:Cm2Jg3EA0
★★日英同盟★★

★明治大帝の御聖断下る★

桂首相は1901年12月7日、山縣有朋、西郷従道、井上馨、大山巌、松方正義の五元老と小村寿太郎外相、山本権兵衛海相、の二人を招き、葉山の長雲閣で日英同盟を決定した。
12月9日には閣議が開かれ、翌日に明治大帝の御聖断が下った。

1902年1月30日、ロンドンで調印された第一回日英同盟協約は全文六箇条、海軍の協力に関する附属書簡一通よりなっている。
要点は次の通りである。
第一条 日英両国は、清帝国及び韓国の独立を承認し、英国は清帝国において、日本は清帝国及び韓国において、特殊権益を有するので、第三国によりこの利益を侵害される場合は、必要な措置を取る。
第二条 日英両国のいずれか一方が、右の利益を防護するため、第三国と開戦した時は、他の同盟国は、厳正中立を守り、他国の参戦防止に努める。
第三条 右の場合にもし、たの一国または数国が、その同盟国に対し、交戦に加わる時は、他の同盟国は来援し、共同作戦に当たる。

第六条 本協約の有効期間は五カ年とする。

71 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 21:56:04 ID:Cm2Jg3EA0
★@優れた大日本帝国の指導者★

◎明治大帝と賢臣◎
日英同盟の成立にいたる日本国内の政治過程には、注目すべき変化が見られる。
明治大帝の御信任厚い元老の中でも、第一人者であった伊藤博文が、日英同盟については終始消極的で、反対派といってもよかった。
ロシアとの戦争を極力避けるという立場から、伊藤は日露協商のほうに傾いていた。とうてい勝てる見込みが無かったからです。
桂首相は伊藤より六年後輩であり、元老ではなかったが、伊藤の意志に反して強引に日英同盟交渉を推進した。
桂首相を支えたのは、加藤高明と小村寿太郎との二人の外務大臣である。
加藤は1860年生まれであるから、伊藤より、19年も若く、1881年7月に東京帝国大学法学部を卒業して三菱に入り、1887年に外務省に転じ、政務局長をへて1894年11月、駐英公使に任じられている。
1898年3月にロシアの南下に対抗するため日英同盟を結ぶ必要があると上申した。
小村寿太郎は1855年生まれで加藤より5年年長であるが、外務大臣になったのは加藤のほうが一年早い。
小村は藩閥に属さないこと、大学南校に学んだ後、文部省留学生としてハーバード大学で勉強した点、加藤高明とともに新しい指導者である。
日英同盟か日露協商かで国論が割れた際、元老山縣有朋は63才、伊藤博文は60才である。
まだ老化が進んだとはいえないとしても、加藤高明や小村寿太郎のような40代の進出に比べれば、往年の指導力は低下していたのかもしれない。
日本が危機を迎えたのが、元老たちがまだ甚だしく老化せず、新進の政治・外交家が続々登場していた時代であった事は幸運であった。

72 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 21:57:20 ID:Cm2Jg3EA0
★A優れた大日本帝国の指導者★

◎明治大帝と賢臣◎
もう一つ注目されるのは、元老たちの団結の強さである。
日英同盟問題で伊藤と井上馨とは一時孤立したように見えたが、一旦日英同盟協約の締結に決すると、伊藤も井上馨も全面的に協力している。
これをロシア皇帝をめぐる専制政治の不安定さと比べれと、優劣は自ずから明らかである。
不完全であるとはいえ、日本は明治大帝を中心とする立憲政治に徹し、元老は一致して明治大帝を補佐した。
これに反してロシア皇帝の専制君主ニコライ二世は、気まぐれで、精神の安定さを欠き、君徳に乏しかった。
ドイツ貴族出身の皇后アレキサンドラや寵臣の影響を受けやすく、近代国家の指導者とはいえない。
宮廷内の勢力関係に左右されるツァーリ(皇帝) の寵愛をめぐって、ロシアの内政と外交は揺れ動いた。

73 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 21:58:42 ID:Cm2Jg3EA0
○日清戦争の勝利がなければ日英同盟は無かった○

日本が日清戦争で勝利していなければ、日英同盟は無かったといわれています。
イギリスに取っては、日本でも清帝国でもよかったようです。
何より、ロシアと覇権争いをしていましたので、極東での大英帝国の弱点を補強する為に極東での軍事バランスを保つ為のパートナーを欲していたのです。
当時、ロシアはドイツとフランス、特にフランスと仲良くしていましたので、欧州の独仏の動きを注視していました。
ですから、極東で一番頼りになる国と結べばよいわけで、清帝国になる可能性も充分あったのです。

74 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 21:59:12 ID:Cm2Jg3EA0
★最後まで清帝国寄りだった大英帝国★

日清戦争の最後、勝敗が決まるギリギリまでイギリスは清帝国寄りでした。
日本が勝っても中立だったのです。
その後、大英帝国が日英同盟へと踏み切る動機になったのは、三国干渉を受けて大日本帝国が明治大帝の御聖断の下、賢臣、臣民が一致団結し、臥薪嘗胆で海軍力を増強した結果、大英帝国の認める所となり、大日本帝国との同盟を選択するに至ったのです。

75 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:00:08 ID:Cm2Jg3EA0
◎日英同盟締結に日本国中がわき返る◎

日本国内には、日英同盟が超大国ロシアを刺激し挑発するのではないかと恐れる向きもあったが、大半の日本人は、日英同盟締結を大変喜んだ。
社会主義運動家の山川菊栄女子は、府立第二高等女学校の出身で回顧録の中で当時の様子を書いています。
学校で日の丸とユニオンジャックをクロスして飾って、君が代とゴッド・セーブ・ザ・キングを歌ってお祝いした、と。
福沢諭吉先生は自ら発刊していた『自由新報』で、『世界最大の七つの海を支配している大英帝国と同盟を結んだ。これは夢か夢にあらざるか。いや、夢にあらざるなり』と記しています。
締結までには、政府関係者の間でいろいろ議論があったようですが、日英同盟締結後は、日本国中が喜びでわき返る様子が伝わってきます。
『やっと世界の一等国になった』という感じではなかったのではないでしょうか。
とにかく当時の日本は弱小国でしたから、ロシアは歯牙にも掛けない感じです。
当時の在日ロシア大使館の駐在武官は『日本との戦争は軍事的散歩にすぎない』と言っています。
周りの国もイギリスも含めて、日本がロシア帝国に勝つ事など予想もしていなかったのですから。

76 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:01:09 ID:Cm2Jg3EA0
☆日の沈むことなき大英帝国@☆

●日英同盟の裏側●
大英帝国が『名誉ある孤立』から日英同盟に踏み切った理由は、なんと驚嘆すべき事実だが、世界中の海軍が束になってかかってきても勝つ見込みがなくなったからだというのだ。

1901年のセルボーン海相こ覚書によると、当時の大英帝国の戦艦四十五隻、露仏合計四十三隻、五年後には五十三隻ずつの同数という見込みで、世界中の海軍が束になってかかってきてもよいという時代は過ぎた、との事です。
ロシアが極東に新造の戦艦、巡洋艦を優先的に回航させ、1901年に一挙に二隻増派したときには、大英帝国は地中海からやっと一隻を極東へ送りますが、それ以上の余裕はなく、極東の軍事バランスは、戦艦で英5、露5、仏1、装甲巡洋艦で英2、露6、仏1、と劣勢になります。
ここで戦艦6、装甲巡洋艦4を有する日本が英か露仏のどっちにつくかが重大な意味を持ってきます。

77 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:01:41 ID:Cm2Jg3EA0
☆A日の沈むことなき大英帝国☆

●日英同盟の裏側●
日英条約は、大英帝国の閣議では難航しますが、その際ビーチ蔵相はランズタウン外相に対して、『この条約から何らかの利益が得られるとすれば、それは大日本帝国の海軍であり、大英帝国海軍の負担を軽減するということだ』と書き送っています。
日露戦争直前の情勢判断でも、セルボーン海相は『ロシア帝国海軍が勝つと、極東の海軍バランスは大英帝国にとって不利になり、海軍費の増大を意味する』と懸念します。
これに対してバルフォァ首相は、『ロシアが勝っても艦隊は消耗するだろうし、ロシア艦隊は日本とにらみ合いを続けるから欧州には使えないだろう』と冷静な判断を下しています。
大英帝国は強力なロシア艦隊を極東に貼り付けるためや、極東での軍事バランスを保つ為に日英同盟に踏み切ったのでした。

78 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:05:03 ID:Cm2Jg3EA0
※※@日露戦争※※

ロシア軍の満州撤兵問題とその背景

日英同盟協約が締結された2ヶ月余り後の1902年4月8日、ロシアと大清帝国との間に満州撤兵条約が成立した。
日英同盟の効果が早くも現れたといえよう。
撤兵条約の内容は三段階となっており、最初の6ヶ月以内に奉天省の西南から撤兵し、次の6ヶ月以内に奉天省の残部と吉林省から、そしてさらに次の6ヶ月以内に黒龍江省から撤兵することになっていた。
1902年10月8日、ロシアは約束通り第一次撤兵する事になっていたが、1903年4月8日になっても第二次撤兵は行われなかった。
もし、ロシアが条約を守って1903年10月8日に満州からロシア軍が全兵力を撤収していたならば、日露戦争は回避できたはずである。

79 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:05:59 ID:Cm2Jg3EA0
※※A日露戦争※※

ロシアの強硬な態度の背景に、日本人に対するロシア政府要人達の軽蔑があったことは疑いない。
膨張政策をとるという一点において、ロシアの文武要人達は、ほぼ完全に一致していた。
ただその方法において、経済派と軍事派との2派があった。
1892年から1903年まで蔵相の任にあり、のちポーツマス講話会議でロシアの全権となるセルゲイ・ウィッテは、
ロシアの資本主義が急速に発達している事を重視し、軍事力を用いなくても、シベリア鉄道の経済力のロシアは東南に進出できると考えていた。

80 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:06:31 ID:Cm2Jg3EA0
※※B日露戦争※※

これに反して、1897年から1900年までの外相ミハイル・ムラビィヨフや軍部は強硬政策を唱え、1898年3月に旅順と大連との租借に踏み切ったのも、ミラビィヨフの政策であった。
更に注目されるのは、侍従兼国務顧問官という奇妙な職にあったアレクサンドル・ベゾブラゾフの存在である。
彼は皇帝ニコライ二世の絶大な信任をえており、鴨緑江に伐木権を得て鴨緑江木材会社を主宰し、宮廷の有力者や重臣たちを勧誘してこの会社の大株主にした。
1894年から5年間極東艦隊の司令官を務め、1903年から2年間極東総督という新設の地位についたエフゲニー・アレクセイエフ海軍大将もその一人である。
アレクサンドル・ベゾブラゾフやエフゲニー・アレクセイエフのようないかがわしい人物はもとより、慎重派に属したクロパトキン大将も、日本及び日本人を軽視していた。

81 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:07:01 ID:Cm2Jg3EA0
※※C日露戦争※※

クロパトキン将軍は短期の日本訪問後、『日本との戦争は軍事的散歩のようなものだ』と語った。
●日本世論の硬化●
1903年4月に、ロシアが第二次撤兵を行わない事がわかると、日本世論はロシアに対する敵愾心に沸き立った。
日本政府の首脳四人、すなわち伊藤、山縣の両元老と桂首相及び小村外相は、大阪で開催中の内国勧業博覧会を視察するため西下機会に、京都の山縣別邸無隣庵に集まった。
四人が達した結論は次の三点であった。
@ロシアが満州還付条約を履行せず、撤兵しない時は厳重に抗議する。
A韓国については、日本の優先権を認めさせ、一歩も譲らない。
B満州についてはロシアの優越を認め、朝鮮問題を解決する。

82 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:08:51 ID:Cm2Jg3EA0
※※D日露戦争※※

6月23日には御前会議が開かれ、伊藤、山縣、大山、松方、井上、の5元老と桂首相、小村外相、寺内陸相と山本海相の四大臣が出席して、無隣庵会談の結論を確認した。
その要点はロシアが撤兵しないときは、この機会に韓国問題を解決する。
すなわち韓国の一部たりともロシアに譲らず、そのかわりに満州については譲歩するというのである。
伊藤博文も山縣有朋も、この段階ではまだ戦争の決意をかためていなかった。

83 :大学への名無しさん:2007/12/06(木) 22:09:47 ID:Cm2Jg3EA0
※※E日露戦争※※

参謀総長大山巌大将は明治大帝に提出した意見書は、次のような趣旨であった。
『目下の戦略関係は我に有利なるも、年月を重ねるにしたがい、彼比その情勢を転ずるにいたるべく
かつ韓国にして彼の勢力下に置かるるに至らば、帝国の国防また安全ならざるべし』
年月がたつにつれてロシアが有利になるというのはシベリア鉄道を通じて欧州から援軍が続々到着している事を意味している。
1903年5月9日、小田海軍中佐は軍令部長の旨を受けて参謀本部を訪ね、『1日遅れるのは1日不利』という点で、一致した。
5月29日には陸軍省、海軍省、外務省の部局長クラスが芝烏森の料亭湖月に集い
『帝国は今の時を以て一大決心をなし、戦争を賭して、露國の横暴を抑制するにあらざれば、帝国の前途憂慮すべきものあり。
而して今日の機会を失しては、将来決して国運回復の機に会せざるべし』

84 :大学への名無しさん:2007/12/11(火) 02:14:19 ID:Ads4ZGrnO
このスレで日本史講義してる奴、岡崎久彦の『戦略的思考とは何か』って読んでるな?

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